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Institute of Foreign Residents Education In Japan・전국재일외국인 교육연구소
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2006年8月 伊豆
 
第1回寄り合いの記録
2006.8.21~22 第1回研究所「寄り合い」 
      テーマ 伊豆の朝鮮に関わる史跡 
       場所 伊豆 呉徳洙監督山荘 ゲスト呉徳洙監督     

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2007年8月 京都
 
第2回寄り合いの記録 
                   日本映画に描かれた「在日」
 
                     
                                                              全国在日外国人教育研究協議会  事務局長 寺井 秀登

  第2回の「寄り合い」であるが、映像とトーク「日本映画に描かれた[在日]-劇映画を中心に-」をテーマに呼びかけられた。早くも、所長の趣味?(怒られそうだが)の世界が企画に登場してきたなと感じたが、私自身深めていきたいテーマでもあったので二つ返事で参加を決めた。

  「寄り合い」学習会は京都悲田院で予定通りの時間に始まり、はじめに問題提起として、映画監督の呉徳洙(オ・ドクス)氏の話を受けた。呉監督の話は、「商業映画(劇映画)は、社会のニーズとその時代情況がよく反映される」そうした意味では、「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるように「映画もまた社会と時代や世相を映すカガミだと思う」。3年後の「2010年は、日本による朝鮮植民地支配から数えて1009aff7a52.jpeg年、この100年の間、日本の映画の中に在日が登場する作品は少なくない」。例えば、「戦前は、植民地時代を反映した、『内鮮一体』『内鮮一如』を鼓舞する、いわゆる国策映画が数多く制作」され、日本の敗戦後は、「一方では差別的に描かれ、他方では良心的・友好的に描かれるという時代」になり、在日の世代交代がすすむと、「時代を反映してか、自らのルーツを訪ねたり、自らのアイデンティティを問う映画が目立つ」ようになったということを基調にしながら、時代の変遷と共に在日が、とりわけ日本の劇映画の中でどのように描かれてきたかを、作品の部分上映も含めて語られた。

 確かに、ドラマや記録映画、ルポルタージュ等も含めるとかなりの数を数える。映像の世界に身を置き、それらを肌で感じながら、1997年には『[在日]戦後在日五〇年史』のメガホンを取った呉監督の話に引き込まれ、部分上映ではあったが映像(『あれが港の灯だ』『キューポラのある街』『京阪神殺しの軍団』『GO』)にのめり込んでいった時間であった。

 私的感想で申し訳ないが書かせて頂く。戦前の「国策映画」については、全く見たことがなく、『有りがたうさん』(1936年・清水宏監督/主演上原謙・桑野通子)や『望楼の決死隊』(1943年・今井正監督/主演高田稔・原節子)は、機会があれば是非鑑賞したいと思った。特に、今井正で思い出すのは『橋のない川』(ほるぷ映画)ぐらいしかない私は、戦後制作された『あれが港の灯だ』に繋がっていく背景や今井自身の思いを掘り下げて知りたいと感じた。

 戦後、1950年代後半~60年代にかけて紹介された作品群の中では、なんと言っても『キューポラのある街』(1962年・浦山桐郎監督/主演吉永小百合)である。はじめて観た時のことを正直に言えば、作品そのもの(勿論すばらしい作品)より吉永小百合様だった。しかし、私自身がよく観てきた映画は、呉監督の言う圧倒的に「宗主国としての傲りからくる描写。興味本位な風俗描写」としてのやくざ映画である。また、そういった一連の映画をおもしろく観てきたのも確かで、深夜テレビなどで放映された折りに「ピー」っと入る台詞はだいたい推測がつく。一方、「在日を良心的、かつ誠実に描写し、差別・貧困に負けない健気な姿。民族を超えた友情。帰国事業に見られる社会主義国への憧れ。日朝連帯」といった作品は、他に『にあんちゃん』(1959年・今村昌平監督/主演長門裕之・松尾嘉代)ぐらいである。是非、他の作品は観ておきたいと思った。

 1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と紹介のあった映画はほとんど観ている。『あれが港の灯だ』の木村青年と『GO』(2001年・行定勲監督/主演窪塚洋介・柴咲コウ)の杉原青年にみる「40年間のタイム・ラグ」そして、その「共通点と相違点」には見事に時の流れと在日のおかれてきた状況を感じた。小説『GO』(金城一紀著)の「朝鮮籍」を巡る誤認については、全外教として、次刷りからの訂正か注釈の必要性を提起したが、何の返事も返ってこなかった経験がある。参加者の金井英樹氏から、当時の講談社とのやりとりを聞かせて頂いた。改めて金井氏のいろんなところでの関わりの深さを感じた。私は、返事がないのでほったらかしにしてきただけだった。

 最後に、呉監督が、「在日がこの日本社会に存在する限り、今後も在日が日本映画に描かれ続けるであろう。なぜかというと、それは日本社会が常に精算しなければならない近・現代史のツケだからである」と述べたが、私自身もこうした視点を忘れず、映像の世界(所長の趣味?)を覗かせてもらい、豊かになりたいと感じたことを記して報告に変えたいと思う。

 少し長くなるが、せっかくなので当日資料として提供されたペーパーから、「日本映画に描かれた在日」作品群を紹介する。
  
 注) 以下のサイトに、映画の作品紹介をアップロードしています。
 
 年代別 「在日」が描かれた日本映画作品一覧    



2008年8月 西宮
 
第3回寄り合いの記録 
             
夜間中学運動の歴史と現状を学ぶ

                                         全国在日外国人教育研究所  事務局長 小西和治

 第三回「寄り合い」は、第29回全国研究集会兵庫大会のフィールドワーク終了後、研究集会全体会までの8月22日の一夜、甲山全景と阪神間の夜景を一望できる温泉宿の六甲保養荘で開催した。当日の仕事を終えた後に広島から駆けつけ数時間の交流後に翌朝の仕事のために去って行った正木さん、翌早朝の食事もほどほどに大会準備のために全体会会場に向かった全外教役員や地元実行委のスタッフの皆さん、等も含めて多数の参集を得ることができた。

610efce8.jpeg   今年は民族教育弾圧に抗した阪神教育闘争から60年にあたり、また日系中南米人が在日する原点ともなったブラジル移民100年にあたることから、これらとも密接にかかわっている「夜間中学運動の歴史と現状」を「寄り合い」の学習テーマの一つにした。講師は、夜間中学教育の実践者であり運動のリーダーの一人でもある吉川研究所副所長、奈良県の公立夜間中学現役教員でもある寺井全外教事務局長、神戸市の長田自主夜間中学でも活躍している韓裕治全外教事務局次長の三人にお願いした。三人の話の内容は多岐にわたり、それぞれの実践を踏まえた感慨深いものであった。その要点を以下にまとめてみた。
 
公立夜間中学の歩みと増設運動
   第二次世界大戦後、経済的貧困や、戦争の混乱、そして部落差別などのため、学校に行けない子どもたちが多数存在した。そういった子どもたちに学ぶ場を提供することを目的に一九四七年に夜間中学が生まれた。その後数年間、夜間中学は各地に広がり増え続けた。一九五四年には12都府県に87校、一九五五年には生徒数は五千人を越えるようになった。しかし、この時から夜間中学は減少する。一つの理由は、社会の安定により仕事をしなければならない子どもたちの減少である。また、国が義務教育遵守の方針から夜間中学で学ぶ生徒たちを昼間に学習させようとしたからでもある。これらにより夜間中学は閉校に追い込まれ、一九六八年には21校、生徒数400人余りとなる。

   この頃から、夜間中学増設の運動が活発化する。夜間中学卒業生の高野雅夫さんたちがその中心になった。「6・3制を乱す」「法律にもない、もぐりの学校」という圧力に抗して一九六九年から夜間中学は、また増え始める。一九七二年までに大阪で5校、東京に1校が新設された。一九七〇年代からは、市民運動としての夜間中学増設の活動が行われていく。自分たちで資金を調達しながら、週に数回学習する自主夜間中学を運営し、地方自治体に対して公立化を要求していくものである。一九八二年に神奈川に34校目の公立夜間中学が出来るまでこの運動は続いた。しかし、その後は公立化には至らなかった。奈良県橿原市で自主夜間中学として運動を続けて四年にして、一九九一年に公立の35校目が出来た。その後広島の一校が廃校となった。二〇〇一年大阪の太平寺夜中が8年余りの運動を経て独立校となり、神奈川(横浜市)で一校減って一校増え、現在35校となっている。 
  
   夜間中学は生徒として、年齢・生育歴・学力・国籍・入学時期等を問わず、実に多様な人々を受け入れてきた。識字問題には貧困と差別が大きく関わっており、夜間中学も同じである。夜間中学の生徒には、貧困や戦争のために子どもの時に学校に行けなかった人、被差別部落の人、障がい者、在日韓国朝鮮人、などの識字活動が原点として存在する。また近年、中国からの帰国者、インドシナ難民、結婚などによる渡日の外国人、日系中南米人といった人たちへの生活のための日本語学習という要素も加わった。
 
各地の夜間中学の状況 ― そして未来のために
  最近の生徒数増加の原因として、新たに渡日した外国人生徒の増加が挙げられる。夜間中学は草創期の「戦中戦後の混乱期に学校へ行けなかった人達の救済」という目標から、多様な生徒が日本社会で生き抜くための基礎知識を学ぶ教育へとその存在意義の中心を変え、質的にも量的にも拡大し続けている 

   このような歩みと、生徒の要望を踏まえて、全国の大部分の夜間中学は行政の定める中学校在学は三年限りという「義務教育」基準と闘い続け、修学可能年限の延長を勝ち取ってきた。また、学習内容も教科書を使った一斉授業という形態による指導ではなく生徒の要求と実態に合わせてどのように生きていく力を育んでいくための真摯な実践が各地でなされている。学生・生徒の自治会活動を尊重し、教員と生徒がともに自分たちの考える理想の学校を作る努力を組織的に追求していることも特筆される。

   修学年限延長、生きる力を育む学習内容、生徒自治会の活動尊重、これらの実践的な三原則は全国の多くの夜間中学で大切にされてきた。この原則を守る運動が不十分で、三原則のほとんど全てが実現されていない公立夜間中学が一部の都市に存在している悲しい事実もあるが、手弁当で公立夜中の不十分さを克服するための努力をしている自主夜間中学も同じ地域で育ちつつある。
 
   このような話は知識としては知っていたが、自分自身の実践として長年努力されてきた方々から直接聞くと、思う事・考える事も多く質問と激励が相次いだ。そのため、今回の「寄り合い」のもう一つ学習テーマとして急遽設定した在日外国人常勤講師問題については議論をする時間が十分とれなかったのは残念である。今後の全国運営委員会や各地での議論、そして差し迫った運動へのご支援を切にお願いしたい。

   在日外国人は日本社会の矛盾による被害を集中的にうけ、今なお差別と排外の増殖に苦しめられている現実がある。在日外国人常勤講師問題、そしてまた夜間中学問題も研究集会を終えた兵庫・神戸の地の大きな課題であろう。在日外国人教育に関わってきた私は、我々は今何を為すべきかを考えさせられた「寄り合い」あった。

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